機械仕掛けの映画のための未完成の力学 澤井俊明

ハリウッド再編成に思う

ディズニーがFOXを買収というか、20世紀フォックスの資産を分割購入し始めた時に気づいたのだが、配給のブエナビスタは普通に成功していたものの、僕は映画少年の頃から結構ディズニー映画も見ていて思うことがある。
昔のSFブームの時はカーク・ダグラスとファラ・フォーセットの「ブラック・ホール」、最近では「ジョン・カーター」南北戦争の将校が火星に瞬間移動、異星人と戦う。これは具体的に数億ドルの損失を生んだ。
ジュリー・アンドリュース以外に、ディズニーは人間の出る映画はほぼ壊滅的。スターウォーズはキャスリーン・ケネディーの指揮の下、スピンオフ「ローグ・ワン」が大成功し「ハン・ソロ」が鳴り物入りで登場したものの制作陣の足並みが揃わず、内紛が相次ぎ、実力あるキーマンは脚本のローレンス・カスダンと監督のロン・ハワードだけになった。
一部のファンを喜ばせていた「フイルムによる撮影」も行われず、興行はさんざんに終わった。僕はスターウォーズ・ストーリーと呼ぶには異質な印象が強く、もし音楽がジョン・ウィリアムズだったら、全く違う評価をしていたと思う。
キャスリーン・ケネディーを手放したあと、スピルバーグはメディアに乗ることすらなくなった。マイケル・チミノにシンボライズされる、かつてのハリウッド業界の再編劇を思い出して考えた事がある。

バリエーションの極端な偏り

先日「上映集団ハイロ」の席で「音楽が世間にかけられる時間を買うというビジネスは、おかしい」と言ったものの、しどろもどろになってしまったが、あの焦りは何だったのだろうか。最近、自分の価値観が「多様性」と「バランス」というか、「バリエーションの極端な偏り」が生じた時に、とてもじっとしていられない、怒りに近い、気持ちのバランスの乱れを覚えることに気づいた。
これまで関わったことのある他のアート、音楽やお芝居、前衛ダンス、パントマイム、版画、CG、絵画、など、あらゆる表現が、財布が見つからない時のように、いっとき、はっとすることがあっても、これらの芸術が「バリエーションの極端な偏り」で崩壊していくことはないという「絶対的な安堵感」を持っている。
しかし、こと「映画」は機械から芸術に変容する偶然が重なって生まれたものだから、他の芸術と違って、たったひとりの心の表現の仕方としては全く機能できないところから始まっている。見るのにも見せるのにも機械を必要とするために、はじめから興業もしくは政治・宗教・思想伝達のようにお金を中心に考えなければならない、ある意味でいうと下劣極まりない発育をしてきた。
ハリウッド黄金期の興業において「風と共に去りぬ」あたりまでは、なんとか文学と競おうとしたものの、以降「豊富で親しまれるバリエーションを壊す」ことがオリジナリティとして映画に求められるようになった。ビビアン・リーがそれを証明している。
多様な表現が許されない旧ソビエトにおいて、ジガ・ベルトフは過剰なモンタージュの展開で繋いでいく表現に人々の営みを隠蔽し、ニキータ・ミハルコフは、モダンで西洋的退廃をテーマにするも、古い戯曲からの演劇的手法で避難をかわし、タルコフスキーはテーマ自体を隠蔽する表現を成熟させた。彼らはモス・フイルムのエリートで反体制運動とは無縁であるが、少なくとも健全と云えるものではない。
澤井の「現世(うつしみ)」制作当時は、絶対に賞を撮るためにプロットを仕掛けておき、それはオリジナリティではあるけれども、他の形式や様式でも出来たと思っている。「奇をてらって狙い通り」というのがいまだ居心地が良くない。
かつて小さなライブハウスに集うバンドファンは昔、ライブが終わってもなかなか帰らなかった。だが、駅前でギター片手に歌っている青年の前で、立ち止まっているおっさんの姿はよく見かける。また、ほとんど縁のないひとから、安物のコピーで作った芝居のチケットが送られて来る。表現者がいる限り、変容し続け、反動も起こるだろうが、ポップスが一時的になくなっても、ヒーローが失せても、音楽は人の糧となりつづけ、身体表現は次のステップに向かっている。

映画を論じるということ

映画作家と観客が自由にコミュニケーションをするというイベント、「上映集団ハイロ」にお誘いを受けた時、僕は古くさい攻撃を警戒していた。その理由は、ある親しい作家より「映画をことごとく罵倒・批判され、一所懸命作った大事な気持ちを喪失した」と聞いていたからだ。その日に何があったか分からないが、時代の背景としてまだ学生運動の名残で、批判することがリアルだった頃なので、作品から彼の人格を批判する何かがあっても不思議ではない。
今ではユーモアたっぷりの司会者に甘えて、僕は評論家よろしく自由闊達にものを云っている。それが映画を見始めた時と場所が極めて幸福だったと最近知った。中学生時代、東京のミニシアター系の映画を抜粋して、大阪の毎日ホールというイベント会場に運んで来た集団があった。非常に濃厚に映画にのめり込んだ作品が「天井桟敷の人々」というギリシャ映画だった。関西エキプ・ド・シネマは「アレクサンダー大王」「家族の肖像」「ブリキの太鼓」「民族の祭典」と次々に面白い映画を見せてくれた。
世界中の良質な映画を片っ端から見たお陰で、へたくそな映画のいい部分がはっきりと見られるようになった。映画批評に自信が生まれたのは、この頃のおかげだと思う。それが川喜多かしこと高野悦子らがはじめた団体と知ったのは50歳を越えてからである。
エキプ・ド・シネマの設立目的は「埋もれた名作を世に出す組織」という。「上映集団ハイロ」も全国に無数ある上映組織も志を同じくしている。村おこしの映画祭も、おおよそ同じ目的を掲げているだろう。
今や機械仕掛けの映画作りと、上映が自動化されて、おそらく自称映画作品は無限に存在するのだろう。僕のスマホは、シネマ撮影と80インチプロジェクターの機能があるらしい。おおよそタダに近いガジェットで、シネコンレベルの品質を凌駕する撮影が可能になった。また一億円の制作費が欲しいなら、クラウド・ファンディングに、2、3度トライし、コツをつかめばお金だけは簡単に集まるだろう。
批判されることも評価されることもなく、ひたすら数だけが増幅し淘汰され廃棄されていく。20世紀フォックスの行き詰まりは、この個人映画の無尋常な増幅と無縁ではない。先日、国際便の飛行機の座席で、最も人気のあるディズニー・コンテンツは「ロッキー・バルボア」シリーズだった。今、原稿を書いているビジネス・ホテルの洋画人気のナンバーワンは「ダイハード4.0」だ。僕も正直言って、新作を見るよりマンネリのループに惹かれる。

希望の論理

世界で一強となったディズニーでさえ、結果に懐疑的で怯えはじめている。しかし個人映画、独立系映画にとって、もう罵倒や批判だけの時代は終わり、「しらける」ことも意外や一時代のことだった。まさにぶっ飛んだポジティブが恥ではない時代だと僕は感じている。
だから「上映集団ハイロ」は重要で、過剰に期待をしてしまう。このチャンスの時に「一緒に映画を作ろう!」というエネルギー、それが生まれて来るのをじっと待つ。もしライブの後に家路を急ぐイベントなら、器や箱の議論を始めればいい。
僕が初めて参加した日は、就職前の多くの学生が集まっていた。「ちいさな映画づくりがとっても有意義」、そうつぶやいていた若い卒業生達が「ハイロ」に寄りつかないのは何故か?それは「作り手と観客」の公平性は担保されていても、生活に直結する魅力が根本的に欠けているからだと断言する。

故に、映画は消耗品として捨てられて行く。

ぜひ映画ファンに問いたい。僕の推測は誤りで「映画はかくも強靱に生き続けるのだ」と。そんな物語なら一晩中でも聴いていたい。

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