「MISHIMA」と「NEO TOKYO」

今思えば、大学四年の時に全く働く気がないのに、就職活動をした。当時は広告がブームで、コネ無し社員の面接の日に、電通の前にたどり着いて数百人のリクルートスーツの行列を見て何か空しくなり、ロビーを見学して帰ろうと思った。そこには大きな石碑が飾ってあり、「朝日新聞社」と書かれていた。

その年は映画好きの私だけでなく、男女を問わず時代のアイコンというべき、映画が公開された。
「AKIRA」である。

大友克弘❌芸能山城組のぶっ飛んだ映画と音楽は、ただただ「パンク」、完全に「イッ」てた。
実際、過激すぎてアメリカでは上映館が少なく、イギリスで大ヒットしたと聞く。

芸術が爆発していたのだ。
いやいや、爆発して芸術に収まらなかった。

何の制約があるのか知れないが、日本の映画は始める前から表現に囲いを作ってしまっていた。
「AKIRA」には、ギュンタ・グラス原作の「ブリキの太鼓」とほとんど同じシーンがある。
この作品も相当過激で、大友克弘氏を相当挑発したのかも知れない

同じ超能力を持つ「ブリキの太鼓」の男の子は最後に大人になると決めて、時代の停滞から逸脱した。僕は2020年の「NEO TOYO」は、秩序が崩壊し、混沌と崩壊から来る恐るべきエネルギーで「東京オリンピック」を迎えるとワクワクしていた。
その象徴が「春木屋」みたいにな店の連なる歌舞伎町だった。まさか、その直ぐ近くに自分が住むとは思っていなかった。

最近、コマ劇場の跡のiMAXシアターを含むシネコンに良く出かける。映画館を出て広く清潔な道路では、タバコを吸うことも出来ない。むかしむかし、ノーベル賞候補になった、世界的作家が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決した。酔狂と思いきや、その二週間前にこんな文章を残している。

このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。「日本」はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

三島由紀夫「果たしていない約束」より抜粋

何年も頭から離れなかったこの一文が、胸をえぐる。「戦争」と「平和」が、相対(あいたい)する言葉ではないように「表現の自由」と「公共の福祉」は、基本的になんの因果もない。そういえばこの作家の大ファンだった母は、今年の正月に死んだ。私の周囲も歳を重ねるごとに変貌していく。
だが、こと自分に関しては、どういうわけか老いに反比例するが如く、映画の世界に、あらゆる表現をぶっ倒れるまでやり尽くしたいという情念みたいなエネルギーに憑依されている。なにか自分に暗示をかけていたたがが外れたようだ。

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