大島渚さんとの想い出

大島渚さんが病床の身であることは色々な方から聞いていたので、訃報の報道があってもそれほど驚かなかった。しかし二十数年前に大島さんに助けて頂いたことは、忘れなかったし、ひょっとすれば記録があるのではと探してみた。

校長先生に叱られているみたいだが、大島さんは「戦場のメリークリスマス」公開直後だったので、山本寛斎さんのTシャツを着ていらっしゃる。後ろにも、同じシャツを着ている若者が見えるが、当時はこのファッションは至る所で見られた。

少し「戦場のメリークリスマス」に話しを逸れるが、あの混沌とした脚本を大島さんは、ロバート・レッドフォードと沢田研二に持ち込んだのだ。それもハリウッドに飛んで、目の前で談判したそうだ。大島さんの際限ない、恐れを知らない映画への執着は、若き頃の低予算映画から規模の違う大世界まで一貫して続いていたと思う。沢田は、当時やはり左派と思われていた大島のオファーを「多忙故」と断ったそうだが映画があたってからは、『今年は「戦メリ」ルックだ』と負け惜しみを吐いていた。レッドフォードは、脚本は読んだものの日米合作という手前「アメリカ人はこんなものは見ない」と一喝したそうだ。

1980年代、まだ全共闘世代の過激な生き残りが「差別狩り」を行い、一方卒業した連中は「俺たちは戦争を越えてきたのだ」と、我々なにもない「しらけ」世代の人間に常に上からの目線で見られるような暗い部分を残していた。大島さんの映画に大きな影響を受けていた私は「神話と差別」、それも具体的な障害者差別を取り上げ映画を作った。未だに後悔はしていないし、素晴らしい映画だったと信じている。

苦労が実ったのか、当時は審査員推薦という形をとっていた「ぴあフィルムフェスティバル’83」で大林宣彦氏推薦で入賞することが出来た。写真はそのうち上げパーティーで撮ったものだ。写真が暗いのには、ちょっと訳があった。友人が僕たちに記念のカメラを向けたとき、大島さんは「ストロボを焚かなくてもいいの?」と訊かれ、僕は「ASA400ですから大丈夫ですよ」と答えた。すると大島さんは「そういうの、全然知らないんだなぁ」とおっしゃったのが印象的だった。

黒沢でさえ気にするであろうフィルムの感度を知らない大島さんは、本当にただ怒鳴って叱ってそれでいて、場をまとめる天才だったに違いない。ピンクのスーツで現れる助監督は変人であり、それでいて内なるエネルギーを物語に投じることのできた希有な存在だっただろう.

さて私が賞を取るに際して、大変なことが高校で起きていた。私の映画を差別化の映画だと弾劾し、その責任を学校が負えという大議論が起こっていた。大林氏は「その解決にもあたるつもりで賞をあげた」と云ったが、実際のところ、その時代は「狙われた学園」から始まる大林宣彦の時代だった。電話もした、手紙も書いたが、全くなしのつぶてだった。

その時、短いものだがお手紙を私たちに下さったのが、大島さんだった。

これだけのお手紙だったが、職員会議での私へのバッシングも減り、否定的であった父も私の訊いていないところで「息子は大島渚に褒められたんですよ」と云って回ったそうだ。

たかが一枚の写真。たかが一通の手紙。されど大島渚と人生ですれ違うひとときがあって良かったと、心から思う。
彼は死んでない。

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