ジェーン・フォンダ

今を遡る35年ほど前。私が中学生の頃、校則で禁止されていた映画館に密かに通い始めた。まじめに映画感想文を書いて、年間300本をクリアしたと記述した記憶がある。ちょうど英語の関係代名詞を習った頃、父のタイプライターでファンレターを書いた相手が「ジェーン・フォンダ」だった。相当熱心に書き込んだ覚えがある。ある日帰宅すると20世紀FOXのロゴが印刷された茶封筒に、サイン入りの写真が同封されていた。


それは飛び上がって喜んだ。今も、当時おこづかいで買った同じ額縁の中に収まって、壁に掛かっている。15歳の少年の目に、年齢が倍近いジェーン・フォンダが、特別な存在になったのは何故だろう考える。私よりひとまわり年下の世代には、この”世紀の大女優”を知らない人が多いのだ。姪のブリジットに注目が集まった時期もあった。

真摯に受け止めてみれば、彼女が主演映画に恵まれていたかというと、結構語るに難しいところがある。というのは、ジェーンが出演した作品の多くが、彼女自身の生き様や実生活と過剰にリンクしており「虚構としての物語」に必ず別のお話がついてくるからだ。彼女は「大いなる物語」の常に主人公であり続けた。

出演作を振り返れば、脳天気なSF映画「バーバレラ(1968)」で、そのコスプレとトップレスでアイドルのように扱われた。しかし再現しようのない、間の抜けた独特の空気感により、SF映画の世界が語られるときには古典の中でも伝説となるほどギークなファンが多い。

その後「コールガール(1971)」というスリリングな作品で演技派と認められアカデミー女優賞を受賞する。

この頃から実質的プロデューサーとしての作品が色濃くなる。「コールガール」も女性の自立に焦点を当てていたが、再度アカデミー女優賞を獲得した「帰郷(1978)」に於いては、退役軍人との愛情問題をもとに「ベトナム戦争反対」の思想を明確に打ち出し、実生活でも政治に深く関与していく。そのメディアでの露出度や発言の影響力は「帰郷」で相手役を演じたジョン・ボイトの娘、アンジェリーナ・ジョリーをはるかに凌いでいた。

映画らしい映画として印象深いのは、劇作家リリアン・ヘルマンの回顧録で、彼女を生涯支えた作家ダシール・ハメットと、ナチス政権下での活動家の女性との友情を描いた「ジュリア(1977)」だ。

こころ揺さぶられる奥深さと、壮大なスケールの大きい作品で、誰しもが彼女の代表作と云うに異論はないだろう。しかし、この作品は「実力派対決」が、見事に身を結び、共演のバネッサ・レッドグレーブが実に印象的な役を演じ、主役というには難しいところがあるものの、恐らく二人はその状況を楽しんだのではないかと推測される。私生活において、この2人のつながりは余程強かったらしく、ジェーンの娘の名前はバネッサというらしい。

恐らく日本国内で最も知られている作品は「チャイナ・シンドローム(1979)」になるだろう。福島の原発事故の影響で、最近テレビでも各局で放送されている。ジェーン演じる女性キャスターと、マイケル・ダグラス演じるカメラマンが原子力発電所の安全性を取材中に、事故が起きるというサスペンスものだ。

映画公開直後にスリーマイル島の原発事故が起こり、日本でも大ヒットした。だが「チャイナ・シンドローム」における原発は、ドラマの背景・モチーフに過ぎず、センセーショナリズムを煽る形でヒットはしたものの、タイトルが示すもっとも重要な事態(アメリカで原発事故が起これば、核物質が地球を貫き反対側の中国に達する)に正面から向き合っていない意味で、いい娯楽作品ではあるけれども、薄っぺらな印象が残る。しかしながら裏を返せば当時の制作者が語り得る、SF寓話の限界まで到達していたと云っても過言ではない。

ジェーン・フォンダの政治活動は反原発のリーダー的存在に至り、反体制派のシンボルとなりつつあった。保守派からは売国奴扱いされ、国家から危険人物としてFBI、CIAなどにマークされる存在となった。ジェーン・フォンダファイルという文書がCIAに存在したという噂を聞く。映画やドラマで「ジェーン・フォンダみたいだ」という表現は、おおむね政治運動のデモの先頭に立つ女性を皮肉るときによく使われる。

この後政治の世界で、前へ前へと進むジェーンに幾つかの変化が起こる。ひとつは「エレクトリック・ホースマン(邦題:出逢い)1979」での、ロバート・レッドフォードとの初共演である。ハリウッドのツートップが、どう関わるかに注目が集まったが、淀川長治さんをして「レッドフォードがみごとにファンダをコントロールし、バランスのいい作品になった」と言わしめる名作となった。

落ちぶれたロデオチャンピオンとそれを追いかける女性レポーターの物語でユーモアと愛情に満ちた作品なのだが、邦題が「出逢い」というつまらないものになったため、ファン以外には知っている人は少ないだろう。それはともかく、2本続けて役柄が女性テレビ・リポーターというのは面白い。偶然にしてはちょっと出来すぎていると思うが、当時の彼女のイメージにはピッタリくることは確かだ。

次の映画ではOLに挑戦。「9時から5時まで(1980)」というコメディ作品に挑戦し大成功を収めた。物語のベースには男社会での女性の自立という、いかにも彼女らしい部分を残しつつも、ズッコケながら体当たりで働く、女3人組のお話は音楽もヒットし「セックス・アンド・ザ・シティ」に繋がる都会的で気持ちの良い作品になっていた。

プライベートではCNNの創始者メディア界の風雲児と呼ばれた「テッド・ターナー」と結婚し、世間を賑わせた(1991-2001)。

このころ、ちょうど家庭用のVTRが行き渡り始め、主に映画をはじめとして「セル・ビデオ」が本格的に始まった。そこで登場したのが彼女の最大のヒット作(?)「ジェーン・フォンダのワークアウト(1982-)」である。

「ワークアウト」はペーパーバックとVHSで販売された。今でこそテレビ前でのエクササイズ・ビデオは、DVDの時代の巨大な市場になっているが、スクリーン上の大女優が、テレビの中で体をくねらせてインストラクターをするという前例が全くなかったため、やせたい願望の女性達のツボにはまり、アメリカで爆発的に売れた。珍しく一般の大衆から好意的に評価され、相当な収益を騰げたようだ。

さてジェーン・フォンダがハリウッドで一気にスター街道に登りつめたのには、「怒りの葡萄」「荒野の決闘」「十二人の怒れる男」など主にジョン・フォード作品で一時代を築いた、実父ヘンリー・フォンダの存在も大きい。リベラル派に支持をされてきたジェーンは、保守派から唾を吐きかけられる存在ではあったが「ヘンリーの娘さん」という特権的地位で許容されてきた歴史もある。

ジェーンがプライベートな家族関係の恩恵を受けていたかと云えば、親子間に縁はなく極めて疎遠で、逆に父親を「忌まわしきもの」とさえ見ていた節がある。これはヘンリーの妻、すなわちジェーンの母親が、自ら命を絶ってしまったことが原因とされている。ジェーンはこの件に関して責任の所在を父親ヘンリーのものとし、しばしばマスコミを賑わした。また実弟の俳優ピーター・フォンダも同様に父親への非難を続け、生涯絶縁を通したと聞く。

図らずもジェーン・フォンダが生涯、男性に依存しない自立した女性像を、公私ともに演じることとなったのには、この不幸な出来事が関わっていることは間違いない。しかしヘンリーの死期が近くなるにつれて、父との確執を解くべく、ジェーンは戯曲の映画化権を買い取り、一本の映画製作に取り組むこととなる。タイトルは「ON GOLDEN POND(邦題:黄昏/たそがれ)1981」である。

この作品は、ヘンリーとその妻役にキャサリン・ヘップバーンを迎え、老夫婦の慈しみと、父娘との確執から和解へのプロセスを描き高い評価を受けた。アカデミー賞においては、ヘンリー・フォンダは生涯初の主演男優賞を受賞し、キャサリン・ヘップバーンは主演女優賞を受賞した。さらに脚本賞も受賞している。作品賞は有力候補とされつつもイギリスの「炎のランナー」に渡った。

しかしこの年のアカデミー賞において、最もドラマチックだったのは、病床で出席できない父に代わり、オスカー像を代理で受け取ったジェーン・フォンダが、テレビ越しに「パパ、やったね」と語りかけるシーンだった。幸運にも日本でも放送され、実に感動的なひとときだった。

この年、ヘンリーは他界する。

大きな節目を越えて、1990年「アイリスへの手紙」でロバート・デ・ニーロと共演する。パン・ケーキ工場で働く中年女性が、文字の読み書きが出来ないことで社会と距離を置いてしまった男性と出会う。やがて家庭教師をするうちに恋に落ちてしまうという、非常に地味な作品である。
デ・ニーロの作品としても声高に評価されることが少ないのだが(ひょっとして劇場公開されていないのかも知れない。)、私個人としてはジェーン・フォンダの主演作の中で最高傑作だと思っている。
その理由のひとつは、実人生と全く切り離して女優としてのジェーン・フォンダ演技の魅力、実力が堪能できたことに尽きる。これまでの記述を全てひっくり返すようで申し訳ないのだが、彼女は常に実生活、家族関係、結婚などあらゆるゴシップやメディアコントロールで大きくなって来た面は誰もが認める事実である。

この映画では、お得意のオーバーアクションも、過剰なおしゃべりも居丈高な姿勢も見せない。あえていうならば、人としてもろくなっていく自分を、母親として押しとどめていく姿がけなげで美しい。また既に中年期を終え、人生に区切りを終えた二人が、もう二度と降りかかることのない愛情の発露を押しとどめようとする様が痛々しく伝わってくる。年齢を重ねた一握りの人間にしか共鳴できないジレンマをこの映画は語りかけてくる。

ジョン・ウィリアムズの名曲とともに、こころの中にそっとしまっておきたい。
(恐らく映画を観たことのない方でも、テーマ曲はどこかで聞かれたかも知れない。街のちょっとしたおしゃれな場所でBGMとして、良く耳にする)

この後、メジャータイトルから名前を聞くことがなくなり、実に15年の隠遁生活に入るが、自叙伝の発売と同時期に「ウェディング宣言(2005)」で、嫌みな姑役としてスクリーンに復活、さすがに健やかな若さは失われてはいたが、コメディ映画の立ち回りを楽しんでいるようだった。

現在、WOWWOWで放送中の「ニュースルーム」で、架空のニュース専門放送局のCEOとして出演している。名高い脚本家アーロン・ソーキンは、テッド・ターナーを彷彿させる女性として、かつて結婚していたジェーンを切望したという。このしゃれっけを受けてのゲスト出演となっている。
今年の第85回アカデミー賞(2013)は、コメディアンのセス・マクファーレンが司会を務めた。監督賞のプレゼンターを紹介する数秒のジョーク混じりのスピーチが印象的だった。

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“次のプレゼンターは、七〇年代、八〇年代のハリウッドの伝説です”

“思い起こせば、ここハリウッドは見渡す限り、コカイン畑でした”

(爆笑)

“彼らはスクリーンに伝説の親を持ち、自身も伝説になりました”

“「ハリウッド製の親は世界一」を実証してくれた二人です”

(爆笑)

“ようこそ、オスカー受賞者ジェーン・フォンダ! マイケル・ダグラス!”

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「チャイナ・シンドローム」以来のツーショットとなる二人だが、J.フォンダと、M.ダグラス、老年の輝きに満ちて、テレビの前からでも畏敬のまなざしが集まっていることは十二分に感じとれた。特に彼女のドレスは、ビビッドなイエローで、他の女優にはまず不可能と思われるコーディネイトで、会場を沸かせた。肩や胸を大きく張り、顎をきゅとしめた独特の個性はそのままだった。


一般的に女優が「ゴシップ」で大きくなることは珍しくない。「時代と寝た女」と罵倒される向きも米国では根強く残る。
だが彼女は、生臭いマスコミに翻弄されない一貫した強さを持ち、常に高潔であり続けた。最も重要なのは、常に誠実を貫く正義感に充ち満ちて輝やき続けたことだろう。その輝きこそが「ジェーン・フォンダ」を「ジェーン・フォンダ」たらしめて来た所以であると言えよう。
15歳の私にとって、誰よりも格好良かったのがジェーンだったように思うし、今でもその気持ちは変わらない。

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